てるめめブログ

映画の感想、そして仕事を通じて感じる「組織」の異常さを自分なりの目線で書いていきます。

宗教感とは自分を律する信念のことではないだろうか

「信じるもの、守るべき指針を持たない人は弱い」。こんなことをインドネシア人の友人から言われたことがあります。大学時代、宗教観について2人でディスカッションしているときにこんなことを聞きました。日本人は無宗教であるため、何か信念を持って守るべき規律や指針が無い。だから弱い、という意見だったと思います。海外の人たちの中には、宗教を信仰していることが半ば当たり前であり、信仰していない人は半人前とみなされビジネス上不利になることもあると聞いたことがあります。

 

こんなことを聞いてある意味正しいかもしれないと思いました。しかしそんなことはないとも思えます。日本人の大半は無宗教です。仏教を信仰しているとは言うものの、仏教のことについて何も知らない人が大半です。私自身も仏教なんて全く知りません。宗派もわかりませんし、お題目もわかりません。むしろイスラム教の方が詳しいくらいです。コーランも読みましたし、ムスリム(イスラム教を信仰している人)との交流も学生時代たくさんしました。ハラルミートも食べましたし、ラマダン明けのパーティにも参加したことがあります。

 

ま、そういう話は置いといて、何かしら正しいとされる考え方やルール、指針を多くの人が心の底から信仰することで、集団、社会が上手く機能するようになるとは思います。個人単位でも、宗教的ルールや指針を遵守することで優れた行動ができるような時もあると思います。自分の欲望に忠実に好き勝手に行動することを止め、ある一定の指針の元行動をする癖をつけるというのがある意味手早く自分を律する方法なのかも知れません。

 

そう、宗教というのは自分自身で指針や信念を作り出せない人に対して、ある一定以上の立派な教義というルールを提供する機能があり、さらに多くの人が信仰していることで集団に属することができる安心感を得ることができるものだと思います。また、集団から外されないようルールを守るという機能もありそうです。

 

宗教とはある意味機能です。社会的なルールを「信仰」という形で説き、喜びを持って遵守させる機能があると思います。こういう側面があるということも知っておく必要があるのかなと思いました。

 

コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)

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